「ラジオの製作」などを読んでいると、いやでもアマチュア無線なるものに関する記事を読むことになる。記事を読むだけでは別世界のことのような感じであったが、無意識のうちにアマチュアバンドの周波数位は覚えた。
ある日、母親が、家のラジオが鳴らなくなったと慌てていた。このラジオ、9トランジスタ、ソリッドステートと自慢気に書かれている。大きさもトースターほどあり、金属製パネル、大型照明付きダイアル、短波用微調整ダイアルまで付いていて、外観も偉そうであった。なんでも、買った当時、「ソリッドステートラジオ」は、真空管式よりずっと高価で、ちょっとした自慢の品だったらしい。この大事に扱われてきたラジオをいじる機会が回ってきたのである。「止めてくれ」という母親の声を振り切り、裏蓋を開けて中を調べた。どうやら電源スイッチが接触不良を起こしているだけのようで、掃除して、自転車油を差すだけで復活した。この一件以来、このラジオを自分の部屋に持って行っても、あまり怒られなくなったようだ。
それまで、ゲルマ君と1石レフだけだった私には、短波は未知の世界で、外国からの放送が聞こえてくるのが、何かすごいことのように思えた。が、放送の中身は政治やらなんやら訳のわからないことばかりで、聞いていても面白くはない。
アマチュア無線というのはどうだろうと7Mc(メガサイクル)を聞いてみたが、声らしきものは聞こえるものの、ぐちゃぐちゃに混信していて何が何かさっぱりわからない。3.5Mcの方は何も入ってこない。何だ、こんなもんか、と思って数日たった頃、3.5Mc付近でドンと強い電波が入ってきた。相手の方は、それほどは強くないが十分聞こえる。しばらく聞いていると、近くの部品屋の話やら、近所の話をしている。何ともローカルでおもしろい。ここいら辺は、いわゆる関西ではないが、「吉本新喜劇放送圏内」ではあるので、話自体聞いていても面白いし、「今、こういう送信機を作ってる」とか、「何やら回路は安定性が低い」とか、技術的な話も聞いていて飽きない。
しばらく聞いているうちに、技術的な話に反論したり、質問したりしたくなってきた。しかし、こちらには送信機も免許もない。この頃、6BE6単球ワイアレスマイクというのを作っていた。5球スーパーの周波数変換回路そのままで、高周波入力の代わりにマイクが、IFTの代わりにチョークコイルと短いアンテナが付いただけのものである。局発コイルはAMバンド+455kcに同調するから、バリコンに直列に小さなコンデンサを入れれば、3.5Mc位までは出るだろう、と思いついて、5分もしたころには、ゼロビートを取っていた。さすがに安定度は最低で、ゼロビートどころか、選択度の悪いラジオ相手に、その帯域内に収めるのが困難な程であった。が、この時、一番近い局が、「誰ですか〜。無変調かぶせてんの?」と言った。こんな機械で本当に電波が飛んだのか、たまたまよそから混信があったのかは、今もって謎である。
安定度に関しては、大阪の明電工業で400円也の水晶振動子を買ってくれば何とかなるだろう。ラジオから引き抜いた6AR5で2〜3ワットも出せば、この楽しい話に加われる。そう思うと、すぐにでもコールサインが欲しい。しかし、現実はそう甘くないのである。
当時、電話級アマチュア無線技士の試験も記述式で、問題集を立ち読みしても、無線法規の難しい言い回しやら、漢字やらは書けそうにもない。うまく行ったにしても、試験は年2回、合格通知が来るのに2〜3カ月、無線従事者免許申請に2〜3カ月、無線局免許申請をして実際にコールサインが来るのに6カ月位かかるらしいのである。それまでの人生の1割近くというのは、気の遠くなるような期間であった。
そんなこんなで少々落ち込んでいると、何と、母親が電波監理局に電話したらしく、「言い回しは違っていても、意味が合っていれば点数は出る。漢字が書けなければ、かなで書いても良いらしい」、とか言い出した。ま、気の遠くなるような話ではあるけど、今、楽しそうに無線に出ている人たちも、そういうことをやってきたんだから、こっちもやるしかないな、そう思い直し、やはり杉本哲氏のアマチュア無線入門書を買ってきた。「ラジオの製作」で受験申請の時期を調べると、なんと、すでに受け付け期間中で、あと10日位で〆切とある。問題は受験申請用紙である。近くの部品屋に聞いても、本屋に聞いてもないと言う。半ばあきらめながら杉本氏の本を読んでいると、「申請書が入手できない人は、返信用封筒を入れて私宛に送れ」と書いてある。本の著者がそんなことまでするか?、という親の声もあったが、他に手がなく、すがる思いで送ってみる。と、本当に送ってきてくれた。しかも、「申請期日が迫っているから、すぐ出すように」という手紙が添えられ、返信封筒には切手が貼り足され速達になっていた。すぐに申請書を出し、お礼状は親に任せて、私は法規の勉強を始めた。この時、いや合格通知が届いてからでも良かった、自分で礼状を書かなかったことを今でも後悔している。
勉強といっても、寝る前に3.5メガを聞きながら2〜30分、本を読むだけであった。法規が面白いわけはない。この時思ったのは、小さい頃、少年サンデーを読み続けていたことの効用。漢字を書くのは得意ではなかったが、結構難しい字も読むことができる。これのおかげで、ラジオの製作も読めた。小さい時には、マンガでも良いから、ルビ付き漢字書きの本を読むべし。
いつも忙しい親父に1日つき合ってもらって、名古屋の千種で受験したのが小学校5年から6年に上がる春休み。合格通知が届いたのが7月に入ってからの授業参観日。10月に従事者免許が届き、11月に無線局申請を出したが、やはり、局免許は「中学生編」へ持ち越しとなった。この頃、なぜか、中学受験なるものを経験することになって、冬休みから2〜3週間、ラジオ作りは禁止されてしまった。しかし、実際の変化は、例の短波ラジオにイアホンがついたのと、母親に言われて、2、3回、兄が社会科を教えてくれたことくらいであろうか。兄も社会科が得意だったわけではない。単に私の社会科がドツボだったからである。兄が教えようと私の教科書を開いた時、パリパリと新品の音がしたそうである