趣味の遍歴(デンキ少年〜無線少年)

デンキ少年の頃

小学校2〜3年の頃、親父が家の電灯(カサ付き白熱灯)を蛍光灯に付け替えたり、コンセントを付けたりしているのを見て、デンキに興味を持つ。このころから親戚の近所に住んでいた工作好きなおじいさんの家に遊びに行くようになり、電球、モーター、電池の使い方をおぼえる。自分でいろいろやってみているうちに、おじいさんのところにあった「電源」なるものがどうしても欲しくなる。
これは、2〜20ボルトまで2ボルトきざみでタップの出ている模型用トランスで、小学生には少々高価なものであったが、親に頼むとすんなり買ってくれた。兄と違って、それまで親に物をねだることが少なく、お菓子を除くとこれが最初のおねだりだったかも知れない。鉛筆に芯に電気を通すと赤熱することを発見。これに爆竹の導火線を結び付け電気発火装置を作る。庭に電線を張りめぐらせ、あちこちにある爆竹を遠隔発火させることを試みるが、失敗。このとき、細い電線を長く引っ張りまわすと電気の元気がなくなることに気付く。オームの法則という言葉は知っていたものの何のことだかさっぱりわからなかったのが、この時、実感として理解できた。


ラヂオ少年の頃

兄のとっている「学研の科学」の付録に「ゲルマニウムラジオ」がついてきた。当時、「電気のことは良く知っている」と自負していたが、ラジオというものについては、自身の知識の遥かに外であり、いずれはラジオなるものを作ってみたいと思っていた。
これをおねだりして箱のまま譲り受け、期待に胸ふくらませて中身を見ると、イヤホンに絹巻き線、そして小さな部品が2、3個入っているだけで、なんとも期待外れなものであった。
こんなもので本当に聞こえるのであろうか、半信半疑で組み立ててみると、確かに聞こえる。かすかではあるが、何か音が聞こえてくる。
アンテナは電気スタンドのコードに銀紙を巻き付けたもので、こんなものがなぜアンテナの役目を果たすのか、さっぱり理解できない。理解できないまま、電話機(600型)の指止め金具をアンテナにしたり、ブリキ板を庭に埋めてアースをとったりすると、十分実用になる位聞こえるようになる。

この頃から、本屋でその手の本を読みあさるようになる。それまでは本というと兄が買ってくる少年サンデー、学校でくれる教科書、そして学研の科学と学習とかであって、自分で本を捜すというのは、これが初めてだったように思う。そして、とうとう立ち読みでは済ませられない1冊の本を見つけた。杉本哲氏の「初歩のトランジスタラジオの研究」である。これは、本当に100回位読んだのではないだろうか。そして、「ラジオの製作」1969年7月号。この号以降、毎月、広告の隅まで読んだ。ハンダのヤニがしみついていたり、テープで幾重にも修繕してあったりするが、未だ捨てることができない。30年近く経った今でも、次のページに何があるのか覚えているのが不思議である。
本を読んで、いろんなものを作ったり壊したりした。最初に買った本の影響で、半導体崇拝者になったが、実際に作るものは真空管を使ったものが多かった。当時、ゴミ捨て場には古くなった真空管ラジオが山積していて、2、3台拾って来ると、しばらく部品に困ることはなかったのに対し、トランジスタを買えるのは正月前後と誕生日前後に限られていたからである。


無線少年の頃(小学生編)

「ラジオの製作」などを読んでいると、いやでもアマチュア無線なるものに関する記事を読むことになる。記事を読むだけでは別世界のことのような感じであったが、無意識のうちにアマチュアバンドの周波数位は覚えた。
ある日、母親が、家のラジオが鳴らなくなったと慌てていた。このラジオ、9トランジスタ、ソリッドステートと自慢気に書かれている。大きさもトースターほどあり、金属製パネル、大型照明付きダイアル、短波用微調整ダイアルまで付いていて、外観も偉そうであった。なんでも、買った当時、「ソリッドステートラジオ」は、真空管式よりずっと高価で、ちょっとした自慢の品だったらしい。この大事に扱われてきたラジオをいじる機会が回ってきたのである。「止めてくれ」という母親の声を振り切り、裏蓋を開けて中を調べた。どうやら電源スイッチが接触不良を起こしているだけのようで、掃除して、自転車油を差すだけで復活した。この一件以来、このラジオを自分の部屋に持って行っても、あまり怒られなくなったようだ。

それまで、ゲルマ君と1石レフだけだった私には、短波は未知の世界で、外国からの放送が聞こえてくるのが、何かすごいことのように思えた。が、放送の中身は政治やらなんやら訳のわからないことばかりで、聞いていても面白くはない。
アマチュア無線というのはどうだろうと7Mc(メガサイクル)を聞いてみたが、声らしきものは聞こえるものの、ぐちゃぐちゃに混信していて何が何かさっぱりわからない。3.5Mcの方は何も入ってこない。何だ、こんなもんか、と思って数日たった頃、3.5Mc付近でドンと強い電波が入ってきた。相手の方は、それほどは強くないが十分聞こえる。しばらく聞いていると、近くの部品屋の話やら、近所の話をしている。何ともローカルでおもしろい。ここいら辺は、いわゆる関西ではないが、「吉本新喜劇放送圏内」ではあるので、話自体聞いていても面白いし、「今、こういう送信機を作ってる」とか、「何やら回路は安定性が低い」とか、技術的な話も聞いていて飽きない。

しばらく聞いているうちに、技術的な話に反論したり、質問したりしたくなってきた。しかし、こちらには送信機も免許もない。この頃、6BE6単球ワイアレスマイクというのを作っていた。5球スーパーの周波数変換回路そのままで、高周波入力の代わりにマイクが、IFTの代わりにチョークコイルと短いアンテナが付いただけのものである。局発コイルはAMバンド+455kcに同調するから、バリコンに直列に小さなコンデンサを入れれば、3.5Mc位までは出るだろう、と思いついて、5分もしたころには、ゼロビートを取っていた。さすがに安定度は最低で、ゼロビートどころか、選択度の悪いラジオ相手に、その帯域内に収めるのが困難な程であった。が、この時、一番近い局が、「誰ですか〜。無変調かぶせてんの?」と言った。こんな機械で本当に電波が飛んだのか、たまたまよそから混信があったのかは、今もって謎である。
安定度に関しては、大阪の明電工業で400円也の水晶振動子を買ってくれば何とかなるだろう。ラジオから引き抜いた6AR5で2〜3ワットも出せば、この楽しい話に加われる。そう思うと、すぐにでもコールサインが欲しい。しかし、現実はそう甘くないのである。

当時、電話級アマチュア無線技士の試験も記述式で、問題集を立ち読みしても、無線法規の難しい言い回しやら、漢字やらは書けそうにもない。うまく行ったにしても、試験は年2回、合格通知が来るのに2〜3カ月、無線従事者免許申請に2〜3カ月、無線局免許申請をして実際にコールサインが来るのに6カ月位かかるらしいのである。それまでの人生の1割近くというのは、気の遠くなるような期間であった。
そんなこんなで少々落ち込んでいると、何と、母親が電波監理局に電話したらしく、「言い回しは違っていても、意味が合っていれば点数は出る。漢字が書けなければ、かなで書いても良いらしい」、とか言い出した。ま、気の遠くなるような話ではあるけど、今、楽しそうに無線に出ている人たちも、そういうことをやってきたんだから、こっちもやるしかないな、そう思い直し、やはり杉本哲氏のアマチュア無線入門書を買ってきた。「ラジオの製作」で受験申請の時期を調べると、なんと、すでに受け付け期間中で、あと10日位で〆切とある。問題は受験申請用紙である。近くの部品屋に聞いても、本屋に聞いてもないと言う。半ばあきらめながら杉本氏の本を読んでいると、「申請書が入手できない人は、返信用封筒を入れて私宛に送れ」と書いてある。本の著者がそんなことまでするか?、という親の声もあったが、他に手がなく、すがる思いで送ってみる。と、本当に送ってきてくれた。しかも、「申請期日が迫っているから、すぐ出すように」という手紙が添えられ、返信封筒には切手が貼り足され速達になっていた。すぐに申請書を出し、お礼状は親に任せて、私は法規の勉強を始めた。この時、いや合格通知が届いてからでも良かった、自分で礼状を書かなかったことを今でも後悔している。

勉強といっても、寝る前に3.5メガを聞きながら2〜30分、本を読むだけであった。法規が面白いわけはない。この時思ったのは、小さい頃、少年サンデーを読み続けていたことの効用。漢字を書くのは得意ではなかったが、結構難しい字も読むことができる。これのおかげで、ラジオの製作も読めた。小さい時には、マンガでも良いから、ルビ付き漢字書きの本を読むべし。

いつも忙しい親父に1日つき合ってもらって、名古屋の千種で受験したのが小学校5年から6年に上がる春休み。合格通知が届いたのが7月に入ってからの授業参観日。10月に従事者免許が届き、11月に無線局申請を出したが、やはり、局免許は「中学生編」へ持ち越しとなった。この頃、なぜか、中学受験なるものを経験することになって、冬休みから2〜3週間、ラジオ作りは禁止されてしまった。しかし、実際の変化は、例の短波ラジオにイアホンがついたのと、母親に言われて、2、3回、兄が社会科を教えてくれたことくらいであろうか。兄も社会科が得意だったわけではない。単に私の社会科がドツボだったからである。兄が教えようと私の教科書を開いた時、パリパリと新品の音がしたそうである


無線少年の頃(中学生編)

連休も目前に迫った4月、ようやく免許状が届いた。免許の日を見ると2月15日。何なんだろう、日本のお役所仕事というのは。
それと、驚いたのはコールサインがJH2になっていたこと。当時、3.5メガに出ていた人達は、みんなJA2。東京や大阪ではJHになったという噂は聞いていたが、コールサインを言うだけで、いかにも「新参者です」と言っているようで、どうもはずかしい。でも、まあ、単なる記号だからいいや、と割り切ることにする。
さて、無線の方であるが、まだ無線機の準備が出来ていない。何とか電波の出る機械は作ったが、例によって穴だらけに使いまわしのシャーシにバラック同然の送信機と、これまた似たような作りの変調機、危なっかしくて、実用に耐えない上に、変調がきれいにかからない。受信機は例のラジオしかないし、送受信の切替えなんて何も考えていなかった。多少まとまったお金を親にねだって、ちゃんと部品を買って、丁寧に作れば、まあ、何とかなるだろう...しかし、この頃、3.5メガに対する意欲が急速に減退する。楽しい話をしていた高校生の面々が就職して、あまり出てこなくなったのと、残った人達も、市販のSSBトランシーバを買い込んで、SSB化してしまった。こうなるとAMラジオでは聞けないし、自作するのは、資金的にも技術的にも難しい。

それに、わざわざ試験まで受けて入った中学は、ジーゼル列車で片道1時間もかかり、授業時間数が増えたのと相まって、無線少年をやれる時間が大幅に減ってしまった。でも、せっかくコールサインをもらったのだから無線はしたい。半ばヤケクソ状態になっていて、気が付くと母親を日本橋まで連れ出して、二宮無線で当時最新鋭のTR−2200を買わせていた。ついこの間まで、既成品の無線機を使うなんて恥しいことだ、とか何とか言ってたのに、いきなり2mFM。
後ろめたい気もしていたが、やはり実際に無線にでると楽しい。3.5メガの面々と違って、技術的な話は少なくなったが、いろんな職業の、いろんな人と知合いになれて、今までとは違う楽しみができた。また、いろんなアンテナが簡単に自作できるという楽しみもできた。何となくやり残した思いがあって、真空管式3.5/7メガAMトランシーバも作ってみたが、SSB全盛の時代に出る幕はなかった。おそらく単独で動作する、まともなセットを作ったのは、これが最初で最後であろう。

中学にも慣れてきた頃、同級生にも無線少年がいることがわかった。一人は下宿性のH君。もう一人は、同じ市内に住むK君である。この時、まだ彼らは無線の免許を持っていなかったが、近々受けに行くつもりとのことである。別に競争するわけではないが、何となく、次の試験を受けないといけないような気になってくる。次は電信級である。聞くところによると、この、とても人間的とは思えない通信形態こそ、アマチュア無線の本道であり、通ずれば柔らかな響きと共に、相手の感情まで伝わってくるらしい。この話が本当かどうかについて云々するには、今もって経験不足であるが、少なくとも高校時代の楽しみを膨らませてくれたことは確かである。実際の電信の通信を聞いたこともなかったが、25字/分の欧文電信はさほど難しくはなく、筆記試験の方も四者択一式で、あっと言う間にできてしまった。記述式だった電話級で苦労したのが、ものすごく損した気分になったのは言うまでもない。

この試験を受けたのは中学2年になる始業式の日。この頃には、2mFMでもいろんな人と出合って、中には、かつて3.5メガAMに出ていた人もいた。当然、私のことは知らないが、その頃の面々も昔ほどではないが、HF帯のあちらこちらで活躍しているとのこと。HFの話を聞くと、やはり無性にHFが恋しくなる。この辺の人にお願いして、中古のHF帯SSB機を捜してもらい、とうとうTS−311なる機械を手に入れる。この頃、高校受験とやらで親が少々うるさくなっては来ていたが、何せ田舎のこと、そもそも入りにくい高校というのはなかった。軒下にガイシをくくりつけ7メガ用ダイポールを張ったが、7メガは混信が多くて近寄りがたかった。21メガには楽しそうなローカル局がいて、このアンテナのまま、そこにはまり込むようになる。この頃、TR5000なる6mFM/AM機も借りていたので、21〜144メガと渡り歩き、多くの人と知合い、さらに、知合いの知合いも含めると、このあたりで無線をやっている人達はそれなりに知合い、という状態になった。もちろん、その後の全盛期に比べると無線人口も少なく、決まったグループ内でしか話をしないという人もほとんどいない時代であった。
余談であるが、この頃になると7Mc(メガサイクル)ではなくて7MHz(メガヘルツ)と呼びましょう、ということになった。というか、しばらく前から国際的にはそういう決まりだったのが、ここに来て免許状の表記とかもMHzに切り変わったということのようである。この頃、21メガには、吉本系のノリのすごく面白い人がいて、また、この人、自作の話にも乗ってきてくれる。しばらくして、この人の同級生という人が開局したが、この人も同じノリで、この2人がノリ出すと、我々はあいづちを入れるのが精いっぱいであった。そうこうしているうちに、高校に入る時期がやってきた。中学にいた無線年H君とK君も同じ高校にいくようである。高校は自転車で10分位、ともかく、遊べる時間が増えることは間違いない。


無線少年の頃(高校生編)

桜満開の中、高校生活が始まった。小学校の同級生もいるし、中学へ同じジーゼル列車で通った仲間もほとんどがこの高校にいる。入学したばかりなのに、何の違和感もない。
この時期はクラブの勧誘が盛んで、上級生にしょっちゅう声をかけられる。この高校、去年までは普通の高校だったのが、学校群化の影響で、いきなり入試点数一等賞の進学校になってしまった学校である。もちろん、校風、伝統がいきなり変わるわけでもなく、クラブ活動もさかんで、教師もさほど勉強勉強とうるさくはない。なんともいい感じの高校である。前身が女学校だったこともあって、家政科、被服科なる、女子ばかりのクラスもあって、学校全体でも女子生徒の方がはるかに多い。これが気に入っている連中もいたようであるが、硬派の私にはあまり関係はない。とはいうものの学校全体の雰囲気が軟らかいのは、それが影響していたのかもしれない。クラブの方は、おそらく無線部に入ることになるだろうが、その前に、他も少しは見ておくことにする。
まずは放送部。いろんな機材があって面白そうだったが、何と部員はほとんどが女子。男子部員はほとんどが幽霊部員で、普段は体育系のクラブにいて、体育祭とかのイベントの時だけやってきて、機材運びやら配線やらをしているらしい。いずれにせよ女子だらけのクラブには、馴染めそうにもない。次に柔道部。中学時代、さほど強くはなかったが、試合とかに出ていると澄んだ気持ちになれて、結構好きなスポーツであった。が、高校の柔道部を覗いてみると、いかにも強そうな連中がガンガンやっている。おまけに、絞め技、関節技なんでもあり。これは気楽にかけもちできるようなものではない。
ということで、当初の予定通り、無線部の戸を叩くことにする。そこで我々を迎えてくれたのは、21メガで漫才をやっている例のコンビと女子部員1。この2人が部長と副部長で、女子部員は1年生だった。なんと、入学式の日に声をかけられて、引っ張り込まれたそうな。部室の中に入ると、他にも部員が何人かいる。話をしていると、どこかで無線の知合いとつながる。しばらく前、21メガで、開局したてのYL局2局に「え〜、無線出てるのに、無線機のこと全然知らないんだね」とか言ってしまったけど、彼女たちはこのクラブの3年生だった。もう引退してるけど。ともかく、なんとも違和感のない入部初日であった。H君も入部、K君は卓球部を主にするとか言っているけど、とりあえず、無線部に入部。

さて、このクラブ、活動が活発だと聞いていたが、どうも様子が変。7メガで交信している人はいるが、他の人達は関係ない話を続けている。屋上のアンテナを見ると、小さなクランクアップタワーに天下のTA33。ここまではいい。ところが、このTA33エレメントが1本大きく歪んでいる。良く見ると給電線も付いていない。活発なクラブでこんなことがあろうはずはない。
先輩に聞いてみると、1年ちょっと前までは、厳しい顧問教師がいて本当に活発な活動をしていた、免許も1年生のうちに電信級を取るのが決まりになっていて、当時は、女子部員も含め、全員が電信を打てたとのことである。が、顧問教師が替わってから活動は停滞気味らしい。しかし、これは我々新入生にとっては悪くない状況である。ローテータ付きのTA33、それに海まで見通せる絶好のロケーション、こういった宝物に、今いる先輩達はあまり興味がないのである。当然、私とK君はこのアンテナを修理し、それを占拠することになる。この年、黒点数最小期にかかわらず、21メガ、28メガでヨーロッパからのパイルアップを受け、旧式無線機の能力を補うべく、電信受信能力の訓練、当時市販無線機のなかった1.9メガヘルツオンエアー、電信のみであるが、オスカー6号で衛星通信、冬は7メガ電信で、アメリカ局一発コール、本当に好き放題させてもらった。電信も普通の速度で送受信できるようになって、次の春には1アマ取得。同級生も次々と1アマ、2アマを取って、2年の終り頃には、このクラブ局で100ワットの免許を取った。500ワットという夢もあったが、後々のことを考えると免許保持者数、予算額の面で無理がある。