プリンタバッファのバッファロー

dot零細真空管アンプメーカーでアルバイト

大学2年の終わり頃(1979年早春?)、自動車部の先輩が卒研前の忙しさから、アルバイトを回して来た。
なんでも、高校時代の友人の義兄さんが零細オーディオ会社をやっていて、そこで真空管アンプを作る仕事らしい。なんか女工さんみたいな仕事だが、しばらく行ってみることにする。
会社といっても常勤は社長一人。あとは、奥さんが事務と製品の発送、休みの日に学生アルバイトが2、3人という小さな会社である。社長が、「これでも株式会社の社長だぞ!」と言うと、奥さん「私も取締役なんだから」、これは2、3回聞いたが、そのつどウケていた。社屋は、社長の実家の敷地に建てたプレハブ小屋。社長夫妻の家も敷地内にあって、プレハブ小屋とつながっている。
子供の頃から真空管アンプや送信機はさんざん作ってきたので、仕事にはすぐ馴染めた。他のアルバイトにも車好きがいたり、社長も半分趣味でやっているようなところがあって、実に気楽な雰囲気であった。お昼になると母屋(実家)にお邪魔してみんなで昼食、3時には奥さんが紅茶を出してくれたりと、下宿にいるよりずっと居心地が良い。


dotちょっと疎遠に

アバイト先では、主力製品 EP-10(真空管式イコライザプリアンプ)の配線と箱詰めが主な仕事だった。月産10台位か。この会社、経営的に大丈夫なのか少々気になる。他にメインアンプMPA-10とか糸ドライブターンテーブルもあったが、出荷数はあまり多くない。ひょっとすると大須のアメ横ビルにあるオーディオショップの売上げで食いつないでいるんだろうか。
アンプへのこだわりは相当のもの。真空管はテレフンケン、コンデンサはスプラーグ、抵抗はすべて金属皮膜、ハンダも銀入り。個人的には、松下と日本ケミコンで性能的に遜色があるとは思えない。整流管がものすごい熱を出しているので、「ここはシリコンダイオードで良いのでは?」と聞いたことがあるが、スイッチングノイズが出るとか、音が硬くなるとかでダメなんだそうな。ここで宗教論争をしてもしょうがないので、そんなもんだと理解しておく。
収穫は、はんだ付けがとってもきれいになったこと。アンテックスのコテ先をきれいに保ち、適温で銀入りはんだを流すと、銀メッキの撚り線にすっと吸い込まれる。子供の頃、真っ黒になった大きなコテで量産していたイモはんだ、天ぷらはんだからは卒業できた。 そんなこんなで、しばらくは週1~2日、土日に仕事をしていたが、飽きてきたのか、だんだんと出勤日数が減ってきた。


dotマイコン導入

そうこうしているうちに、社長からマイコン[1]を導入したいから、機種を選んでほしいとのリクエストが来る。話を聞いてみると、アンプの歪み率特性を見るのにスペアナが欲しいが、高いし、めったに使わないから、代わりにマイコンでやりたいらしい。
まあ、何らかの方法でデジタル化すれば、あとはベーシック[2]でもできなくはない。「FFTの計算に一晩位かかるかも」と言ったのだが、「かまわないから、相談に乗ってくれ」とのこと。
この頃市販されていた機種は、MZ-80K, PET, Apple II といったところか。当時、輸入品はとても割高で食指が動かなかったし、MZ-80K は、起動に時間がかかる(カセットテープ起動)ため却下。他にTK-80BS (COMPO BS/80) というのもあったが、あまり完成度が高くない。どうにも良い選択肢が見つからない中、NECが新型機を出すという情報を思い出した。当時の言葉でいうとペーパーマシン。
8bit Personal Computer PC-8001、1979年9月発売。スイッチオンで、すぐにベーシックが立ち上がる、キーボード一体型とのこと。実物も見ないまま、機種はこれに決定。問題は、前人気がすごく、予約してもすぐには手に入りそうにないということ。ところが、私の心配をよそに、発売日の次の出勤日には、私の買い物リスト通り、本体、カラーモニタ、16KB増設メモリが揃えられていた。どうやら社長の顔の広さを甘く見ていたようだ。 マイコンは揃ったものの、FFT でスペアナもどきを作る話は、どこかに行ってしまった。
オーディオ信号をデジタル化する部分は社長が何とかすることになっていて、そのためにPC-8012 I/Oユニットも買ってあったのだが、それで何か作ろうという気配はない。
とりあえず何かに使おうということで、スピーカーボックスの設計支援用のプログラムを作ることになった。スピーカーボックスのサイズを入れると、ボックス内の定在波の状況がカラーグラフィックで表示されるというもの。元の計算式は社長がどこかから手に入れてきたものだが、本当にこれで良い音のボックスが作れるかというと、少々怪しい。
プログラムを作っていると、社長がいろいろ質問してくる。このあたりから、社長がはまり出したようだ。私が出勤すると、見よう見まねで作った簡単なプログラムが置いてあって、それに対するコメントを求められる。これは整数型にした方が速い、同じ処理を何回もするときは、ループにするかサブルーチンにした方が...などなど。
この頃は、ほとんどマイコン家庭教師のような状態になっていた。「ダメダメ、そんなんじゃ無限ループになっちゃう」、「こんなの桁落ちしてまともに動かないよ」など、社長に偉そうなことをどれだけ言ったことか。でも、社長は常に冷静で、若造の言葉も真剣に聞いていた。

[1] マイコン:今でいうパソコン。パソコンとかPCとかいう言葉は定着していなかった。
[2] ベーシック:会話式で初心者にはとっつきやすいが、いわゆるきれいな言語ではない。


dotターンテーブルの回転制御

お茶の時間に、糸ドライブターンテーブル[1]の話をしていると、困ったことがあるとのこと。シンクロナスモーターの軸に2段になったプーリーを付け、大きなターンテーブルの胴体との間に糸をかけて33rpm / 45rpm で回すという非常に単純な構造がウリなのだが、単純すぎて回転数の調整ができない。使っているうちにプーリーがすり減ると回転数が狂って、特に絶対音感のある人には気持ち悪いんだそうな。もちろんプーリーを交換すれば良いのだが、もっと簡単に回転数調整ができないものか、という話。
まず提案したのが、ステッピングモーター。これは予想通り却下された。次の提案は、PLLか何かで60Hz前後の交流を作ってモーターを回す方法。これも、矩形波にフィルタをかけただけの信号では、高調波が乗ってモーターがきれいに回らないとの指摘。
では、ということで提案したのは、若干周波数の変えられる発振器をバイナリカウンタに接続し、そのカウント値でサイン値を書きこんだROMを読み出して疑似正弦波を作る方法。社長も、それなら良いかな、ということで早速試作に取りかかる。
これもデジタル部分、つまりROMを焼いて、D/A 変換するところまでを私が担当、それを増幅してモーターを回すアナログ部分は社長の担当。
サイン値は、ベーシックでも簡単に計算できる。さて、どうやって ROM に焼くか。市販のPROMライタは結構高く、しかもマイコンで作ったデータを16進で手入力する必要がある。社長は笑顔で無言の催促。はいはい、わかりましたよ、作ればいいんでしょ。 当時主流になりつつあった Intel 2716 は、それ以前のものより格段に書き込みが簡単で、パラレルポートと25Vの電源さえあれば、ほとんどソフトのみで書き込めてしまう。不良在庫化したPC-8012 I/Oユニットとそのスロットに入るユニバーサルボードもある。 Intel 8255 パラレルポートを載せて、ラッピング[2]でちゃちゃっと配線すれば、あとはベーシックで直接ポートをたたくだけで書き込めそう。

[1] 糸ドライブターンテーブル:オーディオのメルコ時代の代表作3533 & 3560
[2] ワイヤラッピング配線:当時の試作配線の常套手段。ソケットに配線を巻きつける。


dotマイコン事業部始動

そんなこんなで、社長と私は趣味的な楽しい時間を過ごしていたのだが、ある日、奥様からお声がかかり、「最近、主人はマイコンばかりいじっている。床についても遅くまでマイコンの本ばかりを読んでいる。本業に支障なければ良いんだけど...」と。
たしかに、お金にもならないことばかりやっていて、どれも中途半端で放り出す、そういう悪の道に主人を巻き込まないで、と思うのは、女性目線では当然かもしれない。
とりあえず、「社長は、ちゃんと考えてますよ」と言ってはみたが、あまり自信はない。私は、ほぼ趣味でやっていたし、社長も8割方はそうだったように思う。
さてどうするか。マイコン関係の製品を出せば、なんとか辻褄は合う。とはいえ、あまりのんびりしていたら、イエローカード2枚で退場になってしまう。
思いついたのは、バラックで作った PROM ライタを製品化すること。でも、PC-8012 用のカードじゃ誰も買ってくれない。ソフトもカセットテープから読ませるのだと使い勝手が悪い。じゃどうするか、といろいろ考え始めたが、時期が悪かった。ちょうど大学の試験前で、そんなことばかりしていると、来年、卒論を書きながら必須科目を受講するという危ない橋を渡ることにもなりかねない。ここはぐっと我慢して、試験が終わってから社長に提案することにしよう。
無事試験が終わった頃(1980年春)、社長にマイコン関係の製品を出したいと提案してみた。社長は2つ返事で「いいよ。出来が悪くても、最低100台は売ってあげる。」
なんともあっけないが、これがマイコン事業の出発点だった。マイコン事業部(最初の頃はコンピュータ事業部)というのは、私が勝手にそう呼んでいただけで、当初のメンバーは私一人。自称事業部長ということにして、例のギャグに加わった。それにしても、「出来が悪くても」ってのは心外である。試験中にもかかわらず、いろいろアイデアが湧いてきて、そこそこ売れる自信はあった。
まずは、PC-8001との接続形態。これは後ろにある拡張バスコネクタに直結。純正のラインアップにPC-8033 フロッピードライブ用 I/O ポートというのがあるが、あれと同じイメージ。実際、PC-8033 の中身も 8255 パラレルポートが入っているだけだ。
次に、ソフトは ROM に乗せることにする。バラック版ではベーシックで書いたプログラムを使っていたが、主な部分をアセンブラで書き直し、かつ、ベーシックからも呼び出せるようにすると使いやすそう。PC-8001 のアドレス空間は、下の方24KBがROM、上半分が最大32KBのRAM領域であるが、幸い、その間の8KB が空いている。ソフトを 2716(2KB)に乗せて、パラレルポート8255、その先のPROMソケットと簡単な制御ロジック、25V の昇圧回路を1枚のボードに乗せれば、安くて使いやすいものができる。2716の次世代、2532も書き込めるようにしよう。これはハードのコスト増なしでできる。
回路図はあっという間に書き上がり、ワイヤラッピングで試作、アセンブラでソフト作成と順調に進む。この頃には、自動車部の後輩を2人引っ張り込んでいて、回路図の清書とプリント基板の発注をM君にやってもらった。
社長からの注文もあった。ケースに入れようとすると型代がかさむので、基板むき出しで。価格設定は、部品価格の3倍。つまり部品代は定価の1/3 までに。あと、梱包や取説がしょぼいと、やはり零細企業だと馬鹿にされるので、そこは見栄を張れ、など。
このとき、メルコではない別ブランド名をつけようという話も出た。牧&鳥山の頭文字で何か良いのがないか考えたのだが、こういう方面のアイデアはとんと浮かばない。そのうち時間切れになって、とりあえずメルコのままでいくことにした。そして、製品名もメルコのPROMライタで32k と 16k が焼けるモデル、ってことでそのまんまMP-3216 に。 社長と相談して、定価は19,800円に設定。ということは、部品代は6,600円か。PROMソケットを少し安めのものにすれば、ぎりぎり何とかなりそうだ。
回路図はできている。清書、パターン起こし、基板発注はM君に頼んだ。ソフトはすぐに動いたが、使いやすさを求めて何度も書き直し。これと並行して取説作成。これは思っていた以上に手間がかかった。この原稿を奥さんが和文タイプでポチポチと清書。社長が見つけてきた、「ちょっと見栄えのする表紙」で製本すると、それなりのメーカー品の雰囲気が出てくる。基板への実装は、奥さんだけでは足らずに、実家の方まで引っ張り出して家族総出の様相。土日になると、出来上がったボードが積み上げられていて、これをM君がテスト、25V の電圧調整をして梱包。私は、テストに通らなかったボードを引き受けて、はんだ付けを直したり、基板のショートをカッターで切ったりといった不良品救済を担当。
社長は営業担当。出来上がった製品を携えて秋葉原を回り、知り合いの店にサンプル品として無料で置いてくる。これが売れたら発注してね、と、まるで富山の薬売り。
社長の話では、店に卸す仕切り値は定価の 50~60%、店が2割引きで売ってももうけが出る水準はこんなものだそうな。実装コスト、出荷のコスト等を考えると、部品代は33%、まあ、そう言われると理解できる。無料でばらまく分まで考えると、100台程度では赤字だ。
この頃からソフト開発と製品出荷検査は、社長宅の試聴室に移っていた。試聴室といっても、1階部分の全部を使った道楽の極地のようなオーディオルーム。3560でイーグルスをかけて、MPA-10で大理石バッフル板のスピーカーを鳴らしながら、アセンブラでポチポチとプログラムを作る。この頃には、奥様ご懐妊の影響もあって、昼食が仕出し弁当になっていた。良い音を聞きながらとはいえ、弁当がおいしくなるわけではない。


dot大ヒット?!

しばらくすると、続々と注文が入ってくる。あっという間に在庫はなくなり、さんちゃん企業総出で製造にあたるが、販売店からの納品催促が止まない。
これまでマイコンのデータを簡単に書き込め、しかも安いPROMライタというのはなかったから、そこそこ売れる自信はあった。しかし、ここまでの売れ行きは予想外。あとで聞いた話だが、この頃、秋葉原では Grape やら Orange などという AppleII もどきのボードが売られていて、このROMコピーという需要もあったらしい。これらのボードは、オリジナルのマスクROMピン配置から2716が差せるパターンに変えてあって、オリジナルのシステムを2716 にコピーしたものまでが店頭で売られていた。
聞いたことのないメーカーの製品が売れている、と聞きつけた雑誌社から紹介記事の依頼がやってきた。タダで宣伝できるとあって、これは大歓迎。原稿(書いたのは私ではないが)を送ると、内容の信憑性をチェックするために回路図を送ってくれと言ってきた。社長も少々悩んだが、絶対に他には漏らさないことを念押しして回路図を送った。しばらくして掲載号が送られてきたのだが、紹介記事を開くと、何やら大きな織り込みページが入っている。開いてみると、なんとM君の図面よりずっときれいに清書された回路図が、バーンと掲載されているではないか。
この業界は一体どうなってるんだ、と驚いたものだが、しばらくしてもっとすごいものを見つけてしまった。秋葉原の某パーツショップの広告に、MP-3216 と同仕様のキットが掲載されている。基板のサイズは若干違うがどう見てもコピー品だ。しかも、さすがパーツショップ。オリジナルより上等なゼロプレッシャーソケットを使っている。ここまでくると、もう笑うしかない。
この製品、PC-8001 専用だし、そうそう長い期間売れることは想定していなかったが、PC-8001 がベストセラーを長期間続けてくれたことや後継のPC-8801が互換性を保ってくれたこともあって、そこそこ売れ続けた。しばらくして売れ行きが落ちてきたが、その主因は PROM の世代交代だろう。Intelの 32k PROM は、2716 とライタの互換性が高い 2532 と 実装時の互換性が高い 2732 の2つがあったが、MP-3216 の32k 対応はオマケ程度なので2532 のみ。大方の予想通り、主流は 2732 になり、さらに次世代の 2764 も流通し始めた。そろそろ次の製品を出さないと。
社長も、マイコン事業に本腰を入れるようなことを言い始めた。この製品、設計段階では部品代 1/3 であったが、半導体の値下がりは速く、さらに大量購入するともっと安くなってきて、結構おいしい商品になっている。社長もしきりに、「こんなものでねぇ」と言っていた。重厚なメインアップに比べればおもちゃみたいなのは確かだが、「こんなもの」がアンプの売り上げを超えるのに、さほど時間はかからなかった。
次の製品は、最低限2764をサポートしないといけない。PC-8001 専用というのも足かせになってくるだろうから、ライタ部分と本体インターフェース部分を分離するのが良い。これだと新しいPROMへの対応も、ある程度はライタ部分の交換だけでいける、と考えてみたものの、あまり目新しさがない。気が乗らないので、大まかなコンセプトと、2764の書き込み回路だけ示して、あとは後輩のS君に押し付けた。


dotプリンタバッファ

PROM ライタのソフトを開発しているとき、どうにもプリンタの遅さが腹立たしい。ちょっと長いプログラムリストを打つと、平気で30分とかかかってしまい、おまけにその間、パソコン(このあたりの時期からパソコンと呼ぼう)が使えなくなってしまう。パソコンをもう1セット用意して、そちらをプリント専用にすれば良いが、当時はフロッピードライブが高価(パソコン本体の2倍程度)で、いちいちデータを移すのも面倒である。そうだ、2台目のパソコンにパラレルポートを付けて、開発用PC-8001のプリント出力を吸い込ませ、そっちのプリンタポートからのんびりとプリントするソフトを走らせておけば良い。幸いPC-8001 本体なら予備機が買ってある。これは思いついただけで実際にはやらなかったが、プリント出力をスプールする専用機を作れば売れそうな気がしてきた。
プリントデータ1行が40バイト程度、1ページ66行、10ページ位はスプールしたいと考えるとメモリサイズは26KB必要。メモリが一杯になる頃には、何ページかは打てているはずだから、16KB でもそこそこ、32KBあれば十分使える。この容量となると、スタティックメモリでは高過ぎる、当時主流の16kbit DRAM なら8個並べて16KB,、これを2列にすれば32KBとちょうど良い感じ。でもこのチップは3電源必要で電源周りが面倒、リフレッシュ回路のことを考えるとCPUは、Z80の一択。これでは、普通のパソコンから画面表示を省いただけの構成で、部品代は優に2万円を超える。
便利そうなのは確かなので、とりあえず社長に提案してみる。社長の反応は、「3倍すると7~8万か。高いね~」。部品代は下がるはずだから、3倍までしなくて良いと思うけど、それを考慮しても5万近くなる。しかも、構成があまりにも平凡で面白くない。
その後、この話は何カ月も凍っていたが、ある日、突然、解凍されてテーブルに乗った。
社長:「エプソンのプリンタには小さな基板が1枚入るらしいよ。」
鳥山:「え、例のヤツをそこに入れろってこと?! しかも安くしろって!!」
めちゃくちゃな話である。DRAMを8個乗せると、他の部品がほとんど乗らない。16個だとDRAM だけでぎりぎりだ。さすがの社長も無理を承知で冗談半分の様子。
無理な話ってのは割と好きなので、いろいろ知恵を絞ってみる。若い頃は、趣味的な話だといろいろアイデアが湧いてくるものである。まず、DRAMは次世代の64kbitチップを使う。まだまだ高価で入手も難しいぐらいだが、試作用の分ぐらいなら手に入るだろう。リフレッシュはソフトでやってしまおう。さて、CPU をどうするか。これは相当悩んだ。結局選んだのは、Intel 8748ワンチップCPU。1KBのPROM、64Bのメモリといくらかのパラレルポートを1チップに載せたもの。もちろんクロック回路も内蔵である。ただし、命令セットは貧弱で、いろんな制約もあってとても使いにくそう、おまけに速度も遅い。
こんなCPU、雑誌でも見かけないし、ほとんどの人は聞いたこともないだろう。唯一、試作用に部品を買いに行ったパーツ屋のお兄さんが、「レアなもの買うねぇ。また何か変なもの作ろうとしてんだろ」と言っていた。メルショップ向かい側のタケイ無線である。
さて、主役と脇役は決まった。本当にこれで動くものが作れるかが問題。DRAMは、パラレルポートにつなぐしかない。Z80の構成だと読み出し命令1発で1バイト読み出せるが、今回の設計では、パラレルポートにRASを出して信号線をトグル、CASを出して信号線をトグルして、パラレルポートからデータを読み出す。おまけに16KB版だとDRAMは2個だけ、つまり、この面倒な手順を踏んでも2bit分しか読み出せない。これを4回繰り返してやっと1バイトだ。(当時、4ビット幅などの便利なDRAMチップはなかった)
リフレッシュに必要なCPU時間割合を計算すると約150%...、ん?、足らんじゃないか。DRAMとCPUのデータシートを穴があくまで読みつくし、CPUのいろんな制御線のタイミングを精査すると、ちょっとした回路の追加で、リフレッシュルーチンのステップ数を減らせることがわかった。これで計算すると約80%。ただでさえ遅いCPUが、1/5 の速度になってしまうが、相手はプリンタ、なんとかなりそうな気がする。
最初のバージョンでは、リフレッシュをタイマー割込みで実行。このCPUは割込みが1種類しか使えないので、データの入力/出力待ちは無限ループでちょくちょくステータスを見に行く、という構成になった。(製品版では、割込みは他に譲っている)
試作機は、これまたワイヤラッピングで作成。プリンタには入らないので、ケーブルを作って外付けに。ソフトも順調に出来たが、S君に頼んであった8748のPROMライタが遅れ気味。ライタができて、すぐにソフトを書き込み、祈る気持ちで電源をONにすると、なんと一発で動いてしまった。アセンブラで数100行のプログラムが一発で動くというのは、ゴルフのアルバトロス並のことかもしれない。
この作品は、ハード、ソフトとも私一人で担当。そりゃ、こんな風変わりな構成では、他の人には任せられない、というか説明するだけで何カ月もかかる。いつものように回路図清書、基板発注、箱の発注あたりはM君。あと、社長お手製のPROMイレーサも大活躍。鰹節削りのような箱の上側に殺菌灯とメカニカルタイマーが付いていて、引き出しにPROMを入れてタイマーをかけておくと、きれいに消えてくれる。今回の製品開発では、ソフトを直す毎に8748に焼き込む必要があったが、使用済みの8748は、鰹節の引き出しにずらっと並べて一度に消せる。木製で、機械っぽい外観でないのも良い。
ソフト開発は試聴室に移っていたが、ハード開発はプレハブのまま。ちょうどこの頃、庭側の一等地にはベビーベッドが置かれ、長男君と加湿器がやってきた。その横で、部品と試作基板に囲まれながら、プリンタ音をBGMに優雅に紅茶を飲み、鰹節削りにゲジゲジを並べる。今回の作品の構成に似て、ちょっと風変わりな時間が流れていたように思う。
今回は、製造を全部外部業者に頼むらしい。そりゃ、ご家族もPROMライタの件で懲りているだろう。これが、後にいうファブレス企業の原点。
ずっと後になってだが、私の作品を褒めてくれているページをみつけた。この人、「プロの作品」といってくれているが、実は、土日だけのパートタイム学生の作品なんだけどね。


dotプリンタバッファ発売までのドタバタ

そうこうしているうちに、1981年を迎えた。大学院入学はすでに決まっているので良いが、卒業研究が佳境を迎えつつある。この頃から大学院の研究室に落ち着くまでは、プリンタバッファの開発は遅れ気味だったように思う。おまけにメルコがプレハブから大須に引っ越したので、その影響もあった。
その間にも、16KB版と32KB版をメモリ実装個数で自動判別して立ち上がるようにしてスイッチを省略する、といった細かな改良を行った。また、日立のパソコンは、プリンタ制御信号のタイミングが違うといことが判明し、これにも対応した。この頃になると64kbit DRAM の価格もこなれてきて、32KB版で部品代が1万円ちょっと。
夏になった頃だったか、社長が信州のE社に、この製品をE社の推奨周辺機器にしてもらえないか、とかなんとか交渉に行ったようである。しばらく待った後、返答は「No」。ラッチアップ対策が不十分だとか、外部のプリンタケーブルに接続している信号線にラインドライバが入っていないとか、いろいろと指摘が付いてきた。確かに、一流メーカーの信頼性の高い製品ではそうしていると思うが、パソコンの安価な周辺装置でそこまでやるべきかは悩ましい。社長は、これらにも対応しておきたいと言うのだが、いかんせん、もうチップを乗せる場所がない。ちゃんとしたラインドライバを乗せると、今度は、内蔵コネクタの電源供給能力が微妙。いろいろと悪戦苦闘したが、結局、抵抗を入れるとかの最低限の対応にとどまった。この悪戦苦闘、他との並行作業ではあったが、半年ぐらいの時間がかかっている。
次に取りかかったのが、検査装置。外部業者は部品実装済みの基板を納入してくれるが、検査まではしてくれない。かといって、全数をプリンタにセットして動作試験するのは手間がかかるし、本当にプリントしていたら、紙がどれだけあっても足りない。検査装置の製作は予想以上に大変で、プリンタバッファ本体の開発と大差ない手間がかかっている。
検査装置のCPU周りは、プリンタバッファの試作品を流用。この上にコネクタを実装した基板を乗せて、さらにそのコネクタに検査対象の製品を乗せるという構成。検査対象機のプリンタ入力コネクタに検査装置からのケーブルをつないで電源オン、検査装置の7セグメントLEDの表示がカウントダウンされ、0になれば検査は無事終了。
プリンタバッファ本体も、起動時に簡単なセルフチェックを行うようにした。この時、DRAMが正常かどうかを検査し、エラーになると、連絡先とともに社長と私の名前がプリントされるといういたずらも仕込んである。初期のプリンタバッファがあれば、試しにDRAMを全部引っこ抜いて起動してみて欲しい。
そんなこんなでずいぶん時間がかかったが、いよいよ発売・出荷を迎えることになる。しかし、あまりにドタバタしていて、これがいつだったか覚えていない。1982年に入っていたような気がするが、ひょっとすると初夏近くなっていたかもしれない。


dotまぼろしのハワイ旅行

売れ行きは絶好調。例によって部品代の3倍程度の定価を付けたが、今回も部品の値下がりは強烈だった。一番高い8748は、最初4千円位していたものが、大量購入のおかげもあって半値ほどに。DRAMの値下がり率はそれ以上だったと思う。かなりの利益率になった商品が、ものすごい勢い(零細企業の感覚ではあるが)で出ていく。
社長も気が大きくなって、「1万台いったら、みんなでハワイ旅行に行くぞ!」。これはすごい。当時、海外旅行なんてなかなかいけない時代。メンバーを考えるといまいち盛り上がらないが、それなりに期待はしていた。結果は、9千台弱だったかな。ハワイ旅行はまぼろしと消えたが、そこまで売れたのなら沖縄ぐらいは行かせてくれよ。
旅行の話とどっちが先だったか忘れたが、プリンタバッファの愛称募集というのをやった。これは社長のアイデア。採用された名前の応募者から抽選で、プリンタやPB-32がプレゼントされるという企画。集まった愛称には、個人的にあまり気に入ったものはなかったが、社長の「一番多かったのにしよう」との声で決まったのがバッファロー。ってそのまんまや。しかも、仲間内では、以前から「プリンタバッファのバッファ郎」とか呼んでた気がする。
私ががむしゃらに製品開発をやっていたのは、この頃までだろうか。その後、これをケースに入れただけのAPシリーズ、さらにDRAMを追加搭載して64KB版を作ったりというあたりは、社長の指揮の下、S君、M君あたりが進めていった。私は、修士論文で手一杯。
マスクROM版の8048も発注していた。8048は1個500円位だが、マスク代が別に数十万円かかる。最初の設計段階からの計画だったが、ある程度の量が出る見通しが立って、かつ、バグや改良が一段落してから発注しようということになっていた。マスクROMにした後の原価率は、ひょっとするとスキー場の飲食店並みになっていたかもしれない。PROMを焼く工程も不要になる。さらに、「名古屋地域で一番のDRAMコンシューマになって、価格交渉力が強力になった(社長談)」ことで、これでまたコストダウン。
マスクROM版にはクロックの高いものがあり、容易に転送速度向上が図れる。 DRAMリフレッシュにCPUの8割を使っていた場合、クロックが2倍になると、最大転送速度は6倍になる。通常のテキストのプリントなら元のままでも遅さは気にならないが、ドットグラフィックをプリントすると転送量が約8倍になるため、このような用途では、プリンタバッファの遅さが露見していた。


dot卒業

1983年3月、無事に修士課程を修了し、就職することになった。そのままメルコで仕事をするという選択肢もあったが、やはり一度はメルコを離れるべきと考えた。まず、普通の会社での経験がない。社会人の常識を身につけないまま、チームをまとめる統率力も不十分なままというのはまずい。もっと大事なのは、私自身の基礎的な知識・技術力がまだまだだということ。趣味レベルとしては上程度の技術力と若さ故のアイデアでここまでは持って来られたが、ここから2~30年走るには基礎力が足りない。修士を出た程度の知識ではどうにもならないし、今のメルコにいながら基礎理論、基礎的学問を学ぶのは難しい。ただ、この時も、漠然とではあるが、将来はメルコに戻るんだろうと思っていた。
今の製品の売れ行きは絶好調であるが、4~5年経ったら、社長から救助要請が出されるかもしれない。私自身も、基礎的な研究よりも物作りがしたくなる時期が来るかもしれない。
前者は全く当らなかった。DRAM路線の延長ともいえるが、メモリーボードが大当たりし、その後も驚くばかりの飛躍を遂げた。
後者も少し違った。物作りはしたくなったが、学問の道は遠く、なかなかきりの良いところまで進めなかった。
東京に行ってからも、社長とは時折会っていた。晴海のデータショウでメルコのブースに寄って、そのまま話し込んだり、社長が東京出張の際、「時間が空いた」と電話してきて、晩飯をご馳走になったり。技術的な話になると、相変わらず家庭教師のような口ぶりで好きなことを言ってた気がする。ある時は、「うちはプリンタバッファとメモリーボードだけで行く」という社長に「日の丸PC相手なら良いが、Mac や unix WS では、もはやプリンタバッファなんて要らない。メモリーも統一規格のSIMMが使われるようになって、メルコの出る幕なんてなくなるよ。」と脅しておいた。商売の素人が偉そうなことを言ったもんだが、幸い新し物好きなので、技術の将来方向はさほど見誤っていないはず。
プリンタバッファの配線をなくしたいという相談もあった。「微弱電波では難しい」と答えたところ、「SSならどうだろう」と。社長からSSという言葉が出てくるとは思っていなかった。とりあえず、「技術的に難しいから、他社のチップやモジュールを試してみれば。アメリカにSSDSのチップを開発している会社があると思う」とアドバイスしておいた。
メルコを卒業して12~3年たった頃であろうか、社長から戻ってこないかとお誘いを受けた。話を聞いてみると、その時期までずっと技術部長が空席だったという。わざわざ空けてくれていたわけではないだろうが、そうでなくても思い切ったオファーである。
この話の少し前、社長と雑談する機会があった。その頃、メルコから80MB のPCカードフラッシュメモリが発売されたばかりで、確か、定価は50万円位だったか。社長に提案したのは、このフラッシュメモリを使ってポータブルオーディオプレーヤーを作ると面白いんじゃないか、という話。「面白そうだね」とかの返事を期待していたのだが、昔とは反応が違った。まだフラッシュメモリはコスト的に無理でも、最初は小さなディスクで始めても良いし、関連の特許を取るなら今のうち、とかいろいろ言ったが反応はない。これは、Apple から iPod が発表される5年ほど前、韓国企業からMP3プレーヤーが発売される2,3年前の話。今考えると、まぼろしとなった3つ目の作品がうまく行った可能性は高くないだろうし、iPod に対抗できていたとも思えない。ただ、この話でわかったのは、私にとってメルコとは、いまだに社長とああだこうだ言いながらモノを作る場だと考えていたということ。そして、もうそういう会社ではないというのを認識したこと。
他にもいろいろ言い訳をつけてしまったが、結局メルコに戻らなかったのは、昔の楽しかった思い出を壊しそうだったのと、そんな考えのままメルコに戻っても、うまくいかないであろうということが理由だったように思う。昔話はそのまま取っておいて、社長が暇になったら、おでんでも食べながらそんな話をしたいと思っていた。

Hiroshi Toriyama, Ph.D

【注】
このページの内容は、関係者や関係する会社に確認したわけではなく、ひとりの技術者の記憶を綴ったものに過ぎません。
時代を懐かしむ読み物としてお楽しみください。